自分の許し方

一人暮らしを始めてだいぶ元気になってきた。好きなときに好きな食事が作れるし、風呂に入れるし、壁に気に入った絵をたくさんかけて眺められる。

 

友人にコメントを貰えたのも大きい。

人の性質なんかを言い当てるのがうまい友人がいて、一時期自殺を考えたことの話なんかをしたらその人から電話が来て、三時間くらい話してくれた。

曰く自分は「何かを決めること」「自分を許すこと」が苦手らしい。納得するまで三時間付き合ってくれた心根がすごい。

せっかくだから友人が話してくれた内容もまとめよう。

・「他の人がこれが良いと言ったから自分もそう行動する」というように人に全て決めてもらう生き方ができる人間もいるし、そういう人はそれでいいが、お前は自分で決めたことに従う方が性に合っているタイプだ。なのに自分で決めるということを、辛くて面倒だから避けて人の意見に従うふりをしている。しかし納得できていないからしんどくなっている。楽な行動を取り続けるのは、自分に甘いが優しくない選択だ。結果的に苦しんでいるのだから、自分を虐待しているようなもの。

・矛盾しないということも完全に割り切れることもあり得ない。大抵の人は自分が決めた道と、他の道を選べばよかったかなという気持ちの間を揺れているもので、でも自分で決めたからには表立って不安や後悔を口にするわけにはいかないから、そういうときに愚痴を言う。

・何か(例えば絵)を始めた原因ときっかけを逆に捉えているからしんどくなる。大抵きっかけ(誰々に憧れて、とにかく褒められたくて絵を始めた)は外的要素で、原因(絵を続けた理由、絵が好きという気持ち)は内的要素だ。しかし分かりやすいきっかけを自分のなかに求めて(自然と絵を描き始めたとか)、責任と表裏一体の原因を他人に求めがち(絵でしか評価されないから絵を描き続けるとか)で、かつそんなことは滅多にあり得ないから苦しむことになる。

12月末に電話があってからこのことについて度々考えている。

 

だいぶ元気になったとは言え、最近は気持ちの上下が激しい。落ち込むときは「眠くもないくせに起きようとしないでぐずっているどうしようもない奴」「センスも才能もない、子供の落描きレベルでデザイン関係に進みたいなんて寒気がする」「何もできない、したくない」みたいなことを考えている。

それがネットを漁って好きな絵を見たり、何もなくても突然「自分は絵が描ける、すごい、これから何でもできる」「新しいことに手を出してみようか」みたいなポジティブ思考のなったりもする。

日に二度三度、この二つを行き来するので躁鬱っぽいと思いつつ、例えば人と話すならテンションは全く変わらないだろうから、ただの気分のムラなんだろう。

 

それで、気分が落ち込む度に泣きながら色々考えて、自分の許し方を思いついた。

思いついたといってもネットで調べて見かけた意見を解釈しただけで、でも「分かった」と言えるほど身についてはいないからこう言っているだけだ。

1、「自分を許します」と口に出して言う。

2、「次は頑張る」という前向きな気持ちを前提として、過去に自分がとった行動は全てそのときにできる限りの行動だったと信じる。

1の方法は実は結構ハードルが高い。自己肯定感がないときは、たとえ本心じゃなくともそんなことは言えない。だから自分がどれだけ参っているかの判定に使えると思う。しかしなんとなく宗教っぽいと思うし(だから宗教は偉大なのだろうが、自分はあまり好きではない)、慣れてしまったら他人の前でもやりそうで怖い。

2の方法はなんの引っかかりもなく納得できるが、すぐ忘れそうである。今までの行動を「そのときできる精一杯だった」「過去は変えられないのだから、どんな行動も今の自分のために必要だった」と解釈するのはわりとよくやっていた。しかし自分を甘やかすための詭弁だと思っていたし、たぶんこれだけだと実際そうなのだろう。次回頑張るために、という前向きな気持ちが前提にあればきちんと成り立つのだと思う。

「次は頑張る」というのは幼いようで、意外とその姿勢さえあれば人は大目に見てくれるものだろう。大目に見ない人は、きっとその人の心が狭いだけだから勘定に入れる必要はない。

 

友人との電話で自分の生きにくそうな生き方に気付いて、それでも20年以上も生きていたことから生まれて初めて人間への愛しさと面白さを感じた。人間は面白いと言い切れる人は、そういう複雑なところに気付く能力があったのか、たくさん見てきたんだろう。

いままで人の感情の動きが嫌いで、みんな無感情で安定していればいいのに、と思っていたのは経験の浅さの表れなのかもしれない。このまま色んな経験をして、人間が好きとか言えるようになればいい。その方が絶対に生きやすい。